▶逢って結ばれた後のこの恋しさに比べれば、それ以前の想いなど、何も思っていなかったのと同じだ。
決まり字:あひ平安中期。権中納言敦忠は左大臣藤原時平の三男で、琵琶の名手と謳われた貴公子である。この歌は初めて結ばれた翌朝に相手へ贈る「後朝(きぬぎぬ)の歌」とされ、逢瀬の余韻の中で詠まれた。当時、後朝の歌は男が贈り、女は部屋で文を待つものだった。敦忠は38歳の若さで世を去り、その歌は百人一首に恋の名歌として残った。
「逢って結ばれたあとの今の心に比べれば、昔の想いなど、何も想っていなかったのと同じだ」——あれほど焦がれたはずの恋心が「無」に思えるほど、本物を知ったあとの恋は深い。恋の遠近法を一首に閉じ込めた歌である。
原歌が言っているのは「初めて結ばれた前と後で、**"恋"という言葉の意味が変わってしまった**」ということ——あれほど想っていたはずの昔の恋心が、本物を知ったいまとくらべれば「何も想っていなかった」に等しい、という恋の意味の書き換えです。この曲はその書き換えを、**「世界の聞こえ方が変わった」**として描きました。恋を知る前、小鳥のさえずりはただの音で、始発電車の揺れはただの振動だった。本物の恋を知った翌朝、同じ音が全部ちがって聞こえる——さえずりは「祝福のメロディ」に、ガタゴトは「ときめきのメロディ」に。変わったのは世界ではなく、聞いている自分。三つのサビの結びを「〜のメロディ」で重ね、最後に「君と見つけた世界のメロディ、ぜんぶ集めて歌にしたい」へ流れ込む構造そのものが、原歌の「昔はものを思はざりけり」の現代訳になっています。そして千年前、この歌は文として姫君に届き、声に出して詠まれた——和歌とはもともと歌うもの。姫の詠み声と、けさの彼女の鼻歌が重なる第三のサビは、恋が世界をメロディに変える魔法が千年変わらないことの証です。
逢ひ見ての(権中納言敦忠・百人一首43番)/ Garu JP
初めて過ごした君との朝
「送ってくよ」と 跳ね起きた君
「駅までいいよ」と 笑ってみせた
夜明けの道を ゆっくり歩く
発車のベルが 急かすホームで
言いたいことば 迷子のまま
「またね」ひとつが やっとの声で
おたがいまだ 続きがある目で
言えなかったことば 胸にあずけて
昨日まで知ってた 「好き」の意味が
今朝はもう 別の色してる
逢い見ての のちの心に
くらぶれば 恋を知る前の
わたしはなにも 想っていなかった
見えなかった 朝がここにある
小鳥のさえずり 祝福のメロディ
がらんとした 始発の車両
窓に映った にやけたわたし
手のひらにまだ 君の温度が
つないだかたちの まま残ってる
「またね」のつづき 送りたくて
何度も書いては 消してしまう
逢い見ての のちの心は
戻れない 戻りたくもない
知らないころの わたしのままじゃ
見えなかった 朝がここにある
揺れる車内は ときめきのメロディ
逢い見ての のちの心に くらぶれば
昔はものを 思わざりけり
千年前の 恋する人は
夜明けの部屋で 文を待ってた
「逢い見ての」と 書かれた恋を
胸に抱いて 朝を生きた
待つだけだった 朝の光を
いまのわたしは 歩いて帰る
逢い見ての のちの心は
昔もいまも 同じ熱のまま
文をよみあげる 姫君の声に
けさの鼻歌 そっとかさねて
時をこえて歌う 恋のメロディ
はしゃぎたいのに すこし怖いのは
これが本物だと 知ってるから
だけど今日は 疑わないで
この気持ちだけ 連れて帰る
逢い見ての のちの心で
「ただいま」を言う ひとりの部屋で
スキップみたいな 心拍のまま
君と見つけた 世界のメロディ
ぜんぶ集めて 歌にしたい