相模(998年ごろ-1061年以降)は平安時代中期の女流歌人。武勇で知られる源頼光の娘(養女とも)と伝えられ、相模守・大江公資の妻となって任国に下ったことから相模と呼ばれた。のちに夫と別れ、歌人・藤原定頼らとの恋が知られる。一条天皇の皇女・脩子内親王に仕え、歌合にたびたび招かれた当代きっての歌人で、中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人。この歌は『後拾遺和歌集』恋四・815。永承六年(1051)の内裏歌合で「恋」の題で詠まれた。このとき相模は五十代。若い日の嘆きをそのまま吐いた歌ではなく、晴れの舞台で、恋に泣くすべての人の声を一首に仕立ててみせた、円熟の一首である。
恨むのにも、もう疲れた。涙で袖は乾くひまもない。それだけでも惜しいのに——と言って、歌はいちばん大事なものへ進む。この恋のせいで、うわさになって、自分の名まで朽ちてしまう。それが何より惜しい。「袖だに」から「名こそ」へ、小さなものを挙げて大きなものを言う段の上がり方が、この歌の骨組み。泣いていることは隠さない。けれど最後に見ているのは、去った相手ではなく自分の名。みじめさのいちばん底で、誇りだけは手放していない。
この歌でいちばん惹かれたのは、失恋の歌なのに、最後に相手を見ていないところでした。見ているのは自分の名です。恨み疲れて、泣き疲れて、それでも「名こそ惜しけれ」と言える。これは悲しみの歌である前に、誇りの歌だと思いました。だから歌詞でも、相手のことはひとことも書いていません。怒るのにも疲れた、理由を数えるのもやめた、制服の袖口だけが今日も乾くひまがない——そこから始めて、つらいのは涙ではなく、廊下で小さくなる声や「かわいそう」のひとことだと歌います。サビは原歌をそのまま歌ったあとに「涙で 袖さえ だめに なるのに/うわさで 名前まで だめに なる」と訳し、「袖だに」から「名こそ」への段の上がり方をそのまま残しました。そして「わたしの 名前は 安くない」。原歌の「名」は評判のことですが、歌詞では文字どおりの名前にも重ねています。Bridgeは、朝の出席確認。自分の名前が呼ばれて、いつもよりすこし大きく「はい」と返事をする。それだけの場面です。泣いた顔は見せてもいい、でも下を向いた顔は見せない。最後は「袖は そのうち 乾くから」。涙は止めなくていい、名前だけは自分で守る——千年前の歌人が晴れの舞台で言い切ったことを、教室の朝に置き直しました。
恨みわび(後拾遺集/相模・百人一首65番)Garu JP
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
袖なら 濡れても いい
わたしまでは 濡らさない
名こそ 惜しけれ
朽ちるのは
袖だけで いい
恨むのにも もう 疲れた
理由を 数えるのも やめた
袖口だけは 相変わらず
乾く ひまが ない
泣くだけなら まだ いいの
それは わたしの 勝手だから
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
袖なら 濡れても いい
わたしまでは 濡らさない
名こそ 惜しけれ
朽ちるのは
袖だけで いい
「かわいそうに」と 言われるたび
名前が すこし 減っていく
減った ぶんを 取り戻す
誰の 手も 借りない
泣いた 顔なら 見せても いい
下を向いた 顔は 見せない
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
袖なら 濡れても いい
わたしまでは 濡らさない
名こそ 惜しけれ
朽ちるのは
袖だけで いい
水を 止めて 鏡を 見る
泣いたあとの わたしが いる
それも わたしだと 決めて
濡れた 袖を 折り返して
背筋を 伸ばしてみる
今日も ここから 出ていく
朝の 光が まぶたに 届く
それで もう じゅうぶん
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
濡れたのは 袖だけで
わたしには 届かなかった
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
袖なら 濡れても いい
わたしまでは 濡らさない
名こそ 惜しけれ
わたしは
わたしが 守る
名こそ 惜しけれ……
袖は そのうち 乾くから