源経信(1016-1097)は平安後期の歌人・管弦の名手・漢詩にも通じた万能人、大納言。源師賢の梅津の山荘(京都西郊・桂川沿いの田園)で「田家秋風」の題で詠んだ題詠。「おとづれて」は語源「音を立てる」=訪れる。秋は音でやって来る、という感覚を言葉にした歌。百人一首で恋でも嘆きでもない純粋叙景歌の代表格。
都の貴族が郊外の山荘で葦葺きの小屋に身を置き、田園の風を浴びる。都にはない風。「秋風ぞ吹く」の「ぞ」に「ああ、秋が来た」という静かな感動。都会の喧騒からの解放感と、ひと夏が終わる寂寥が同居。何も嘆かず恋わず、ただ風を聴いている贅沢。
稲葉の音と秋風で秋を知る原歌に対し、「現代の私たちは何で秋を知るのか」から歌詞を起こしました。答えは、夜の虫の声と早くなった日暮れ。サビの「窓辺から秋が訪れる」の「訪れる」は、原歌の「おとづれて」の現代語です。これは何も起きない歌です——おかえりを言う人のいない部屋で風にただいまを言い、夏の終わりをひとりで祝う。その小さな贅沢は、千年前の葦の小屋にもありました。
夕されば(金葉集/大納言経信・百人一首71番)Garu JP
帰り道の 改札を出たら
空がもう 暗くなっていた
風が少し 軽くなってて
なぜか急ぐのを やめていた
部屋に入れば 置き去りの熱気
ひと夏ぶりに 窓を開けた
夕されば 門田の稲葉
おとづれて 秋風ぞ吹く
虫の声も 冷たさも連れて
窓辺から秋が 訪れる
夏が終わる それだけのこと
それだけで 胸がほどける
都会の風は 熱を吐くばかり
季節の名前を 忘れてた
蝉の声が いつの間にか
鈴の音に 替わっていた
何もしない 何も起きない
それが今夜の 贅沢で
夕されば 門田の稲葉
おとづれて 秋風ぞ吹く
灯りもつけない 部屋の真ん中で
風の音だけ 聴いている
おかえりを 言う人はいないけど
風に向かって ただいまを言う
千年前 都を離れて
葦の小屋で 風を聴いた人
その風は まだ吹いている
同じ音で 同じ冷たさで
夕されば 門田の稲葉 おとづれて
芦のまろやに 秋風ぞ吹く
夕されば 門田の稲葉
おとづれて 秋風ぞ吹く
目を閉じれば 何もいらない
虫の声だけ 聴いていたい
夏が終わって 秋が始まる
それだけのことを 祝おう
芦のまろやに……
秋風ぞ吹く