三条院(976-1017)は第六十七代天皇。冷泉天皇の皇子で、長い皇太子時代のあと、三十六歳でようやく即位した。しかし在位はわずか五年。時の権力者・藤原道長は、自分の孫(のちの後一条天皇)を一日も早く位につけたくて、退位を迫り続けた。在位中に内裏は二度焼け、天皇自身は眼の病で、視力を失いつつあった。この歌は『後拾遺和歌集』雑一・860。詞書には「例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしけるころ、月の明かりけるを御覧じて」——病が重く、位を去ろうと考えていたころ、明るい月をご覧になって、とある。『栄花物語』は、長和四年(1015)十二月十日すぎの月だったと伝える。翌年に譲位、その次の年に世を去った。かすんでゆく目で見上げた月は、もう二度と同じようには見えない月だった。
いまは何ひとつ思いどおりにならない。生きながらえたいとさえ思っていない。それなのに、もし生きのびてしまったら——きっとこの月を恋しく思うだろう、と彼は先に知っている。つらいさなかにいる人が、そのつらい今夜を、未来の自分が懐かしむことを予感している。嘆きの歌でありながら、どこか今夜をいとおしんでいる。「恋しかるべき」の「べき」は、願いではなく確信。失うと分かっているものを、失う前に見つめている目の歌。
この歌でいちばん惹かれたのは、恋しいと言っているのが月そのものではなく、いま見えているこの月——もう戻らないこの一瞬だ、というところでした。つらいさなかにいる人が、そのつらい今夜を、未来の自分が恋しがると先に知っている。これを今の学生の歌にするなら、輝かしいだけの青春ではなく、うまくいかない日々のまんなかに置きたいと思いました。原歌の「ながらへば」は、生きながらえたなら、という受け身の言葉です。帝は駆け抜けてはいません。ただ耐えています。だから歌詞でも「がんばれば」とは言いません。走れなくても、うつむいたままでも、この日々は戻らないから恋しくなる。サビは原歌をそのまま歌ったあとに「思いどおりに ならない日々を/それでも 歩いて いったなら/きっと 恋しく なるんだろう」と自分で訳しました。この歌には、技巧が一つもなく、誰のことも責めていない、という美しさがあります。歌詞も同じ作法で書いています。飾らない言葉だけを使い、誰のせいにもせず、「大丈夫」とも「大切に」とも言わない。戻らない、という言葉も使っていません。帰り道をこうして歩くのも、あと数えるほどしかない——そう気づいた目には、窓の明かりがひとつずつ、いつもよりにじんで見える。視力を失いつつあったと伝えられる帝の目を、そこにそっと重ねました。Bridgeでは、大人になった自分はこの夜を覚えているだろうか、と問いかけます。答えは出しません。そのすぐあとに、原歌だけが一語も足さずにまるごと歌われます。千年前からの返事です。最後のサビでは、恋しくなるのは月だけでなく、うつむいていた自分も、うまくいかないこの日々も、と歌います。そして曲は「あしたも 歩ける」で終わります。未来の自分が恋しがるその道が、いまはまだ手の中にある。私たちがこの歌から受け取った、ささやかな希望です。
心にも(後拾遺集/三条院・百人一首68番)Garu JP
今日も うまく 笑えなかった
うつむいたままの 帰り道
ふと 顔を 上げると そこに
電線ごしの 月が いた
思いどおりに ならない日々を
それでも 歩いて いったなら
心にも あらで 憂き世に
ながらへば いつか
恋しかるべき 夜半の月かな
きっと 恋しく なるんだろう
いま 見上げてる この月が
この道を こうして 歩くのも
あと 数える ほどしか ない
窓の 明かりが ひとつずつ
いつもより にじんで 見える
なにも 言っては くれないけど
月は 家まで ついてくる
心にも あらで 憂き世に
ながらへば いつか
恋しかるべき 夜半の月かな
それでも 歩いて いったなら
きっと 恋しく なるんだろう
いつか 大人に なった ぼくは
この夜を 覚えてるかな
うつむいた わけは 忘れても
この道 歩きたいかな
心にも あらで憂き世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな
それでも 歩いて いったなら
きっと 恋しく なるんだろう
電線ごしの 今夜の 月も
うつむいていた ぼくも
うまく いかない この日々も
夜半の月かな……
あしたも 歩ける