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百人一首 第29番・凡河内躬恒心あてに

凡河内躬恒出典:『古今集』秋下・277
心あてに 折らばや折らむ 初霜の
置きまどはせる 白菊の花
百人一首『古今集』讃美初霜の降りた庭
心あてに ジャケット

現代語訳

当て推量で折るなら折ってみようか。初霜が降りて見分けがつかなくなった、白菊の花を。

決まり字:こころあ

ミュージックビデオ

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歌のものがたり

Story

時代背景

凡河内躬恒(生没年未詳)は平安時代前期、9世紀末から10世紀初めの歌人。官位は甲斐少目・淡路掾など終生低いままだったが、歌の腕は紀貫之と並び称され、『古今和歌集』の撰者四人の一人に選ばれた。三十六歌仙。この歌は『古今和歌集』秋下・277、詞書は「白菊の花をよめる」。晩秋の早朝、庭一面に初霜が降りて、白菊がどこにあるのか見分けがつかない——と詠む。明治時代、正岡子規は『歌よみに与ふる書』でこの歌を名指しし、「初霜が置いたくらいで白菊が見えなくなるはずがない。嘘の趣向だ」と酷評した。けれど平安の歌人にとって、それは嘘ではなく「見立て」という技法だった。ありのままを写すのではなく、わざと大げさに言うことで、その朝の白さと冷たさ、息をのんだ一瞬を伝える。写実の子規と、見立ての躬恒——この一首は、日本の詩が千年のあいだに何を美しいとしてきたかの分かれ目に立っている。

詠み人の想い

朝、庭に出たら一面が真っ白だった。霜なのか、菊なのか。手を伸ばしかけて、止まる。「折らばや折らむ」——折るなら、折ってみようか。この歌には「美しい」も「寒い」も「うれしい」も一語も無い。あるのは、伸ばしかけた手と、迷っている数秒だけ。見分けがつかないというのは、もちろん大げさな言い方だ。でもその大げさのおかげで、初霜の朝の、目が慣れるまでの白さが、千年後の私たちの目の前にも広がる。

歌詞にこめたもの

この歌でいちばん惹かれたのは、感情をひとことも言わずに、伸ばしかけた手だけで朝の白さを伝えているところでした。だから歌詞も景と動作だけで書いています。目覚ましより先に起きた朝、くもった窓、吐いた息まで白い。庭も屋根も自転車のサドルも、ゆうべのうちに誰かが塗ったみたいに白い。サビは原歌をそのまま歌ったあとに「どれが霜で どれが花か/見分けのつかない 白い朝だ」と自分で訳し、「折ってみようか」を繰り返しのフックにしました。二番では、伸ばした指がふれたのは花ではなく葉の上の霜で、指先ですぐ水になる——あてずっぽうは外れ、それでももう一度手を伸ばします。Bridgeでは、この歌が後の時代に「大げさだ」と笑われたこと、けれど同じ朝に立ってみれば自分の目にも見分けがつかないことを、平易な言葉で歌いました。正解が見えないまま、あてずっぽうで手を伸ばしてみる朝。それは、この歌を教室で習う高校生の毎日にも、きっとある朝だと思うのです。

歌詞

Lyrics

心あてに(古今集/凡河内躬恒・百人一首29番)Garu JP

Verse 1

目覚ましより 先に起きた朝

窓のガラスが くもっている

玄関を出て 吐いた息が

ぼくより先に 歩いていく

Pre-Chorus

庭も 屋根も 自転車のサドルも

ゆうべまでの色が ひとつも無い

Chorus

心あてに 折らばや折らむ 初霜の

置きまどはせる 白菊の花

どれが霜で どれが花か

見分けのつかない 白い朝だ

あてずっぽうで 手を伸ばす

折ってみようか 折ってみようか

Verse 2

指の先が ふれたのは

花じゃなくて 葉の上の霜

指の先で すぐ水になる

外れた手を もう一度

Pre-Chorus 2

日が昇れば 霜は消えてしまう

屋根の端が もう 光りはじめた

Chorus 2

心あてに 折らばや折らむ 初霜の

置きまどはせる 白菊の花

どれが霜で どれが花か

見分けのつかない 白い朝だ

あてずっぽうで 手を伸ばす

折ってみようか 折ってみようか

Bridge

むかし 初霜の朝を 歌にした人がいる

大げさだと ずっとあとで 笑われた

同じ朝に 立ってみれば

ぼくの目にも 見分けがつかない

Final Chorus

心あてに 折らばや折らむ 初霜の

置きまどはせる 白菊の花

どれが霜で どれが花か

決めないままの 白い朝だ

日が昇るまえに 手を伸ばす

折ってみようか 折ってみようか

Outro

白菊の花……

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